写真と私
  島田國廣・写真の世界


数ある写真サイトの中から当ホームページにお越し頂き、ありがとうございます。運営管理者の島田國廣です。
[詩季彩華] 「しきさいか」と読みます。
感じるままに、想うままに、余り身構えることなく気軽に被写体と対峙させて貰うことを念頭におきながら写真を撮らせて貰っています。
現在住まいは大阪の交野市というところですので、ここは京都にも近く、自ずと京都中心の撮影となってしまいます。
カテゴリーやジャンルにとらわれることなく、その日の私の撮影行動を、このHPを見て頂ける人が一緒に行ったような気分になって頂ければ幸いです。お時間の許す限り、ごゆっくりご覧頂いて、和める時間をお過ごし頂けることを願っています。

子供の頃
1950年生まれの私にとって、我が家のアルバムに初めて登場したのは一歳か二歳くらい、近所の空き地で母に抱かれての4〜5cm四方の、今となっては茶色に変色した写真でした。
当時カメラを持っている家庭はあまり無く、写真を撮ってもらうとすれば近所の写真館か少しお金持ちの近所のおじさんに撮って貰うくらいでした。
それ以降に登場するのは、幼稚園に入園するくらいの頃のものでしょうか。
しかし、ななな〜んと、私よりも3歳も早く産まれた兄貴は赤ちゃんの時の写真が沢山あるのです。
撮影後、写真館の表に暫く貼られていた、というのが母の自慢でした。
なんたる差別。長男優遇時代の名残ですね。
妻も上に長男がおり二番目の子で、長男の赤ちゃん時代の写真はあるが、妻の写真はないそうです。
私が初めて写真と関わったのは、なんといっても小学生時代に流行った「日光写真」ではないでしょうか。
今となっては記憶も定かではないですが、漫画や映画俳優のフィルムを直接印画紙に太陽の光でもって焼き付けるというものです。
曇りの日は露光時間が長く、晴天の日は露光時間が短く、黒くにじんでしまったり、ちゃんと焼きつけられずボヤーとした写真になったりと、なかなか思い通りにならなかったところや、押入の中での現像(?)なんかが面白かったように思い出します。

学生の頃
カメラというものを初めて扱ったのは高校の修学旅行の時でしょう。
今でも覚えている「オリンパスペン」という機種です。
これはハーフサイズカメラというもので、ハーフサイズというのは一般的な36mmフィルムを半分にして撮るため、通常36枚のところを72枚も撮影出来たのです。
記念撮影的な写真しか撮らない者にとって、そんなに大きく伸ばすことがないため、半分のフィルムで充分だったのです。
まだフィルム代やプリント代などは庶民にとっては高い時代でしたから、すごく経済的なカメラだったのではないでしょうか。
デザイン専門学校に進んだ私は、そこでは写真の授業があり、一眼レフカメラの購入が義務づけられていました。
当時兄が写真を趣味としていて「ミノルタSRT-101」を持っていましたので、私もあまり迷うことなく、課題提出とバイトの明け暮れでそのカメラを買いました。
これはご存じ方も多いと思いますが、TTL追針式カメラで、このカメラのお陰で否応もなく絞りとシャッター速度の関係を身につけることが出来ました。

就職時代
無事卒業することが出来、広告デザインスタジオに就職。7名ほどの小さなスタジオでしたが、クライアントが東洋レイヨンとDXアンテナという硬軟極端な仕事で、なかなか面白かったです。
専属のカメラマンが1名おりましたが、モデル撮影は社長(事務所では先生と呼んでいました)がほとんど撮影しましたので、カメラマンはそれ以外の撮影が主でした。
扱っていたカメラは、4X5、ハッセル(社長専用)、ブロニカ、マミヤRB6X7、その他35mmが何台かあったように覚えていますが、私はグラフィック(広告デザイン)の方なのでカメラに直接触らせて貰えるわけではありませんでしたが、助手としてしょっちゅう使われました。

自営時代
約2年ほどそこでお世話になり、その後そこの事務所のチーフのところにお世話になり、そこが倒産して他の広告代理店に就職し、そこをまもなく退社して自分で仕事をするようになりました。
広告デザインという仕事柄、写真とは常に関係がありましたが、仕事外でカメラを手にするというのは、我が家のネコか妻か、遊びに行った先の記念撮影くらいだったでしょうか。
やがて広告業界の仕事に疑問を感じ(以前から感じていたのですが)、思い切って現在の彫金に転職しました。といっても自営に違いありません。
ここでも創った作品を記録しておくためにカメラは必要になります。
やがてSRT-101の後継機のX-700に買い換えました。
このときに初めてズームレンズというものを使い、その便利さに驚きました。

写真中毒時代!?
仕事も何とか安定し始め、40歳を向かえるにあたり、何か自分なりの表現をしなければならないような、そうでないと自分という存在そのものがないような、そんな気がしてきました。
何をどのように・・・そんなことを長い間思いながら、書店で今まであまり手にすることがなかった写真雑誌をふと見てしまいました。
皆さんもご存じだと思います、「風景写真」という雑誌です。
今まであまり風景写真というものに興味がなかった私にとって、鳥肌が立つほどの衝撃的な出来事でした。
それまで風景写真やネィチャーフォトというものは、中版か4X5の大型カメラでしか撮れないものだと思いこんでいた私にとって、その雑誌のデーターを見てみると、35mmカメラで撮影されたのものが多く掲載されていました。
特に竹内敏伸氏や高田誠三氏はそのほとんどが35mmで撮影されたものに驚きました。
また丹地敏明氏の滝や水の作品にも大きな感銘を受けました。
ひょっとしたら私もある程度表現出来るかも・・・という、何という恐ろしい大胆な勘違いをしてしまったのです。
カメラはあったので、とりあえず望遠ズームを購入して、それから暇を作りながら撮影に行き、だんだんとのめり込むようになるにはそれほどの時間はかかりませんでした。
2週間に一度程度だった撮影が、10日に一度、1週間に一度というふうになり、それに伴いフィルム代、現像代、プリント代とかさんでいくばかりです。
そんなときに高校時代の友人と出会い、彼がニコンF3を2台持っており、その中の1台を売りたいといってきました。
あこがれのニコン、なけなしの小遣いをはたいて購入、おまけに彼の入っていた写真クラブに入会し、ますますのめり込んでいきました。
仕事中でも写真のことが頭から離れず、あの時は絞りはこうすべきだったとか補正はもう少しアンダー気味だったかなとか、次はどこへ行こう・・とかとか、もう正に写真中毒症状そのものです。
そんな中、時間がたつほどに自分の表現力のなさに気づき、また妻の病気のことや仕事の件などもあり、写真を趣味にすることはきっぱりと諦めようとし、99年「相田の詩季」という里山をテーマにしたホームページを公開して区切りをつけることにしました。(このサイトは半年ほどで閉鎖)
それ以来写真関係の本には手を出さず、仕事以外でカメラを手にすることはあまりありませんでした。

再発・・・?!
暫くして妻の病気も回復方向に向かい、仕事である彫金に自分の表現方法が見いだされ始めた頃、妻の入院時に担当してくれていた看護婦さんがたまたま写真が趣味で、現像したフィルムを持ってきて見て欲しいというのです。
ライトビュアーでルーペを片手にポジフィルムを見出すと、今まで治まっていた写真の虫がもそもそうごめいてきたのを感じてきました。
ヤバイナ〜と思ったのですが、もうこうなったらどうしようもないですね。
成り行き任せ、再度自分の気持ちに乗ることにしました。
ただ別にプロの写真家になるわけではないので(成れるわけがありませんが)、フィルムは使わず、デジタルのみでということにしました。
仕事上でHPを開いていたのでデジカメは手元にあり(COOLPIX5700)、それでまた撮影に出かけるようになったのが02年の秋頃です。
だんだんと回数も増えてくるとやはり昔一眼レフを扱っていたので、レンズ一体型のデジカメでは物足りなくなってきました。
そこで思い切って防湿庫で眠っている今までの一眼レフのカメラ・レンズを全て売って、一眼レフデジカメを買う準備をしました。
04年の春、NIKON D-70 が発売され、この歳になって初めて予約購入しました。
今は大満足で、またまた写真中毒症の再発か?と、ちょっと自嘲気味のこの頃です。

撮影機材
カメラ: NIKON D-300s / CANON 5D MarkU/OLYMPUS Pen/PENTAX Q/RICOH GRDV/RICHO GX-100
レンズ: AF NIKKOR VR 70-300 F4-5.6D / AF Nikkor 35mm F2D / AF Micro-Nikkor 105mm F2.8D
SIGMA 17-70mm F2.8-4 DC MACRO OS HSM / SIGMA 150mm F2.8 EX APO MACRO DG HSM
Canon EF 24-105mm F4L
三脚:ベルボン カルマーニュ G5400


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